障害の考え方について

気づいたらもうずっと更新してないんだね。毎日忙しいからなあ。書こうと思うことはたくさんあるんだけど。
今ちょうどパラリンピックの開会式をやってて、仕事休みだし、障害について自分の考えを書こうと思う。

私は、小学校には同じクラスに重い知的障害の子や発達障害の子がいたし、自宅近くには知的障害の障碍者施設があった。バイト先には知的障害の子が障碍者枠で雇用されていたし、スーパーでバイトしたときは、身体障碍者が買い物に来るので、商品を取る手伝いをしたりした。
でも、自分の子供が発達障害と診断されて、初めて“障害”というものを身近に体感することとなり、自分がいかに“障害”を理解していなかったか、間違った捉え方をしていたかを知った。
私は、障碍者に対して差別的な見方をしていた訳ではない。むしろ、漠然と「みんな平等、普通に接しなきゃ」「助けが必要なら快く助けなきゃ」と思っていた。でも、実際に会うと、“普通”ができない。気にしなくていいことまで気にして、こうしたら嫌なんじゃないか、もっと気遣わなきゃ、優しくしなきゃ、って緊張して、私も障碍者の人も、お互いにすごく疲れる。今から思うと、心のどこかで「できない人を助ける」という思いがあったんだと思う。
でも、今は、自分は障害について、その捉え方そのものが間違っていたんだなと反省している。

昔から、日本には障害についての知識・理解が無い。海外でも問題はたくさんあるが、日本は特に理解が無い。
そもそも障碍者との関わりが少ないから、“分からない”んだよね。分からない物に対して、人は否定的になる。そして、多数派である健常者と同じ生活ができないことに目を留め、「劣っている」という捉え方をする。劣っているものに対して優位に立とうとするか、同情しようとするかは人それぞれ。上に書いた通り、私は後者であったと思う。
では、障害とは果たして「劣ったもの」なのか?

私はこう考えている。
世の中は、絶対数の多いグループに合わせて作られている。
例えば、電車の吊革にしても、平均的な日本人の背丈に合わせて作られているよね。
世界に拡げてみても、やはり多くの平均的な人が便利に生活できるように、物が作られ、システムが機能している。
逆に言えば、「平均」から外れた人は、生活しにくいんだ。
障害っていうのはそういうものだと思う。
電車の吊革を、平均的な背丈の人は軽く手を挙げて掴めるだろう。でも、背の低い人や、腕の短い人は届かない。掴むところが無ければ、電車が揺れた時に、転んでしまうだろう。
じゃあ、どうすれば良いのか?

もうお気づきだと思うが、吊革に手が届かなければ、支柱に掴まったり、壁に寄り掛かったりすることで転ばずに済む。
私たちがすべきことは、ここであると思う。
つまり、障害を持った人が、自分に合わない世界の中でも普通に生活できるように、機械を作り、システムを考え、人の手が必要な時にサポートすることである。そうして、障碍者が不便や生き辛さを感じずに生活できる世界を作ること。

広い分野の話になってしまったが、個人に関して言えば、障碍者をサポートするときに、「普通のことができない」ではなく、「自分に合わない生活スタイルの中で、不都合を感じている」と捉えるだけで、だいぶ態度が変わるんじゃないかと思う。
その考え方を念頭に置くと、一般に言われる「障碍者は可哀想じゃない」「普通の人なんだ」の言葉の理解が深まるように思う。