小説に望むものとは

いかに満足のゆく自己表現をするか、であると思う。「満足ゆく」という表現が何を意味するかは人それぞれであるが、私の場合は主体になっているのが「自分」であるので、自分が納得のゆくものができればそれで良い。周りに否定されても、それで良いのである。
では「納得ゆく」とは何を意味するのか。これは非常にスピリットに依存すると思う。作品が面白いかどうかでは無い。書きたいと思ったものが表現しきれたとき、すごい興奮がある。それが自分にとっての納得であり、満足であるのだと思う。
小説をこれからも書いていくとして、何を求めていくのかと言われれば、さまざまな面での追求と答える。内容について言えば「精神をどこまで飛ばせるか」「何を発見できるか」であるし、技術面で言えば「小説という制限の中でどこまで自由になれるか」が課題になってくる。後者に関しては、ぶっちゃけ「文字がある」という事実だけでも十分な制限であると思う。
上のように完全に自分の中に閉じこもっている人間なので、小説面で誰かに憧れるということが無い。小説を読むときは主に「同じ系統か、違う系統か」で区別しながら読む。自分と同じ系統だと感じれば、作者の表現の仕方を考える。それで表現方法が成功しているようであれば、巧いと思う。でも憧れない。そこには小説と自分しかいないのだから、他者を見て憧れる必要も無い。
という自己陶酔的な思考は小説にも表れているので、先日Nくんをウチに呼んだときに「萩さんの小説は暗くてドロドロで自己陶酔してますよね」と言われたのだが、まさにその通りであると思う。それでも、普段の生活に過度に反映しなければ、小説面で何を考えてたって構わないと思うんだ。